集会祈願
🌸 入場の福音 (マタイ21:1-11)
マタイによる福音
1〔イエスの〕一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
🌸 第一朗読 (イザヤ50:4-7)
イザヤの預言
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
🌸 第二朗読 (フィリピ2:)
使徒パウロのフィリピの教会への手紙
イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
🌸 答唱詩編 詩編 典
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (マタイ27:11-54)
マタイによる主イエス・キリストの受難
11そのとき、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。 13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
とに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。 17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36そこに座って見張りをしていた。 37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
2月の半ばから四旬節に入り、復活祭に向けての準備を重ねてきましたが、いよいよ今日から受難の週間(聖週間)に入ります。今年は、ようやく緩和された感染防止対策のもと、典礼を営むことができることを感謝いたしましょう。
今日の受難の主日は、以前は「枝の主日」と呼ばれ、主イエスがエルサレムに入られたときの状況を思い起こす枝の式や行列を行っていました。簡略化された形ではありますが、聖堂に入られる時、お取りになった枝をお持ちになり、主が受難の前に人々から熱狂的な歓迎を受けられたことの意味を黙想いたしましょう。
今日の典礼の中心は、言うまでもなく主イエスの尊い受難の記念です。今年はA年でマタイ福音書から、しかも、短い形で受難が朗読されました。朗読は、司式司祭、語り手、他の人物、そして、群衆の部分を唱える会衆の皆さまによって読まれました。あらためて受難の朗読を振り返ってみますと、いろいろなことにお気づきになられたと思いますが、一つは、マルコやマタイが記す受難の中で、主イエスは、十字架上で詩編の言葉を唱えられた後、大声で叫ばれた以外は、終始、沈黙を守られたということです。耐え難い苦しみと辱めの中で、沈黙を守ると言うことは何を意味するのでしょうか。わたしたちの人生の中で、突然襲ってくる病気や災いの中で、わたしたちは、どのような態度でそれを受け止めているでしょうか。
今日の箇所で、もう一つ目立つ存在は、当時、エルサレムを含む地域一帯に対して、ローマ皇帝に次ぐ支配権を持っていた総督ピラトです。ピラトは、ユダヤ人指導者たちの訴えを受けてイエスに尋問し、彼が帝国に対して何の脅威でもないことを知り、釈放するつもりでいましたが、イエスを亡き者にしようと叫ぶ群衆の声に怯え、ついにイエスを十字架に付けるために鞭打ってから、兵士たちに引き渡します。はたして、わたしたちはしっかりした信念をもたないまま、時の流れに身を任せ、信仰からくる喜びを味わうことなく生きていないでしょうか。
受難の場面にほとんど姿をあらわさないのは、あれほどイエスに愛された弟子たちです。イエスが捕らえられたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と共観福音書は、すでに記しています。一番大事な時、自分たちの忠実を言葉で、行動で表すべき時に、弟子たちは、見事に姿を隠してしまったのです。弟子たちの頭であるペトロは、ひそかにイエスの後を追って、大祭司の屋敷に忍び込みますが、女中たちに見とがめられた時、三度にわたって、「そんな人は知らない」と言ってのけたのです。自分の信仰を、信条を人々の前で明らかにすべき時、わたしたちはどれだけ勇気ある行動をとったでしょうか。先輩キリシタン殉教者たちの態度から学ぶべきことはないでしょうか。
そんな弟子たちとは対照的に、強いられてイエスの十字架を担ったシレネのシモン、十字架上で息を引き取られたイエスの姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長は何を物語っているのでしょうか。
今日は、主の受難の事実を客観的に跡付けるための日ではありません。それは、いつでも、時間さえあればできることです。今日、教会に集い、受難の記念を行うわたしたちは、はたして、こうした主の苦しみを前にして、自分はいったいどこにいるのだろうかを、考える時ではないでしょうか。弟子たちのように、いざという時には、身の安全を第一に考え、巧みに姿を消す、そのような生き方をしていないでしょうか。たとえ、面倒に巻き込まれたくない、そのために今、ここにいるのではない、という思いがありながら、目の前の困っている人のために手を差し伸べるシモンになっているでしょうか。人々の声、大きな声、時の流れ、多数派、そうして群衆の中の一人として、いつも流れに身を任せ、自分の意志をもち、それを貫く勇気を持たずに生きていないでしょうか。いつも正論を吐きながら、弱さの中に自らを現わされ、真の神の姿を知らせようとなさる神の思いを無にする祭司長や律法学者のような、危険を一切身に受けようとしない安全地帯に身をおいていないでしょうか。耐え難い苦しみの中で、ひたすら沈黙を守られた主のみ前で、ありのままの自分を認め、受け入れる光をこい願いましょう。
しかし、マタイ福音書が、主イエスの受難の後、その結びに記していることも思い起こしましょう。復活されたイエスは、弟子たちの不信仰をお咎めになりながらも、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われ、あの弱さに満ちた弟子たちに、また、三度までイエスを否んだペトロに大きな使命をお与えになりました。また、遠くに立って見守ることしかできなかった婦人たちに、まず、弟子たちに先んじて復活のメッセージを伝える役をお与えになりました。
「キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリッピ2.8∼9)人間の弱さを含む苦しみを通して、主が栄光に入り、わたしたち信じる者に同じ恵みを与えてくださることを感謝しながら、主の苦しみを記念する聖週間を一層熱心な心で過ごし、喜びのうちに復活祭を迎えることができるようお祈りいたしましょう。(S.T.)